本論文は、一連の論文において氏が提示している「史的システム論」による「中国史」解釈の一環をなす。史的システム論は、言語学・人類学・物理学に至る現代科学の諸理論を総動員して打出された、歴史についてのグランドセオリーだ。氏自身が史的システム論に対置するところの(上田1989,92)「史的唯物論」のように、社会的、経済的、文化的諸要素をすべて語り得る枠を共有したいという歴史学者の潜在的な欲求は、満たされることはなかった。氏の史的システム論は、この欲求を満たそうとする、貴重な挑戦のひとつである。
さて、本論文の内容についてコメントする前に、上田氏の史的システム論について若干の解説が必要であろう。氏がその研究において一貫して取る態度は、これまでしばしば自明とされた、「国家」などの近代的概念を取払い、また事件相互間の因果関係を認めず、互いに「フィードバック」する循環論法を用いる見方である。その上で、「事件」、つまり個々の出来事を
〇生態システム(物質)
〇社会システム(人格)
〇意味システム(情報)
の3つの面から捉えようとする。この三分法は氏の独創的な部分であるが、共有された意味の世界が「文化」であり(ギアツ)、また「物質流」として資源配分が分析されるとき、この3分野をそれぞれ「経済」「社会」「文化」という馴染み深い言い方に置き換えたくもなる。無論それは史的システム論の厳密な理解には妨げとなるかもしれぬ。しかし、仮にそう置き換えたとしても、下部構造たる社会経済が上部構造たる文化を決定する、というマルクス主義のドグマとは違い、この三者が相互に影響し合うという点は、史的システム論の特色である。
さて、氏は史的システム論を、いくつかの機会を通して発表してこられた(上田1989a,bなど)。そして上田1992の「史的システム論は、これまで数回にわたってバージョン・アップしている。本稿において、ようやくその基本的な枠組みを提示し得たと考えたい。これから後は、この史的システム論を実際の歴史研究に適応する段階に入る」という文末の宣言に沿って、これ以降、「日本において史的システム論を紹介した著作としては、最初の」上田1995において諸曁盆地の歴史が全面的に語られ、また本論文が著された。本論文は、秦嶺山脈を題材として、上記3システムのうち、生態システムの変化を論じたものである。今後は意味システム、社会システムを取上げた専論が期待される。
さて、「アジアから考えるを考える」の趣旨からして、内容を簡述する形での紹介は行わない。しかし、本論文の力点とメリットを指摘することはコメンテイターの義務である。
本論文には、従来の研究には見ることのできない、様々な画期的な意図が込められている。まず従来農耕に向いがちである我々の目を、改めて山区経済へと転じる機会を与えていること、またそこでの林業や製鉄業の実態を、初めて具体的に描き出してくれたことである。さらに、これまで専ら、ある一時点での生産性・成長率にとらわれがちであった我々の経済史への視点に、定常的/非定常的という基準を導入した点が注目される。この持続性という観点を前近代経済にもちこむことで、様々なものが見えてくる。前近代における資源枯渇型の産業とは何だったろうか、人口増加率はどのように決定されたのだろうか。工学的/農学的という適応(石井米雄)を生態系への適合性とコストとの兼合いの視点から見るとどうなるだろうか。おそらく、これをもっとも強く意識した歴史家が、我が国では夙に著名な、リチャード・ウィルキンソンであろう。ウ氏の『経済発展の生態学』は、新石器時代以来の人類の進歩を、人口増加と資源枯渇の挟み撃ちから逃れる技術革新の過程と捉える、衝撃的な歴史観を提示した。上田氏の脳裏には、ウ氏やそれに近いスリッヘル・ファン・バート、さらに速水祐次郎やエスター・ボーズラップに代表される需要誘発型demand-inducedのパラダイムの作品があったことに間違いはない。しかし、氏の一連の業績は単なるその亜流ではない。これらの需要誘発型の研究は、最終的には人口成長を第一原因と考える(ネオ)マルサス主義の傾向を強めるが、氏は一方的な因果関係を措定することなく、人口・市場・技術をひっくるめたmulti-causalな視座を提示する。そしてその変化を、近代世界システムに結びつけるところに、本論文の最大の魅力がある。この点は、掛け値なしに、極めて高く評価されるべきものなのである。また本論のエコロジー文献としての性格にも注目せねばならない。明清史の論文を通じて環境問題への警鐘を打ち鳴らすという曲芸は、余人の及ぶところではない。
しかし、読み進めると、主に引用史料と論旨との対応の面で、幾つかの疑問点が立ちはだかるのも事実である。瑣末な問題も含まれるが、以下に記しておきたい。
まず、「2 定常的山区経済」において、引用された「巡歴郷邨興除事宜檄」および『鎮安県志』からは、養蚕が定常的経済システムに適合的な産業であったとは、どうしても読み取れないのである。むしろ、乾隆年間に劉〓や陳宏謀が導入を試みたが、失敗したと見るのが自然であろう。『鎮安県志』の、「山が高く霧が深いため」、また「樹木が密生していて、鳥が多いため」養蚕が行われなかったというのは、この地にあって、生態システムに不適合であったという記述では? さらに、「鳥が多くても人手をかけさえすれば、その害を防ぐことができたはずである」とすれば、その後労働供給が増加した筈であるのに、却って衰退したというのは、なぜ。確かに、一般論としてサクサンは、天然資源を浪費しない、定常型の産業という指摘に疑義は挟み難い。しかし、乾隆年間にその導入が試みられた一事を以て、18世紀以前の秦嶺山脈の山区経済が定常型であったという行論はいかが。
つぎに、「3 山区経済の短期的「発展」」について、人口が激増した18世紀以降、伐採が進み、安定性が崩れたとする推測には、評者も同意する。確かに人口増は、木材や鉄製品などあらゆる資源への需要を押上げたであろう。しかし、これも提示された史料のみからでは、確認できない。秦嶺山脈の森林資源の利用の歴史については、すでに周云庵「秦嶺森林的歴史変遷及其反思」(『中国歴史地理論叢』1,1993)なる専論が存在するけれども、そこでは秦漢、隋唐、宋と徐々に伐採が進んだニュアンスで語られている。18世紀中期の開発速度とは、実際どの程度のものだったのだろうか。上田氏は、この地の製鉄など様々な「廠」の実態を示す、『三省邊防備覧』の珍しい記述を詳しく紹介されている。そこには樹木を伐採する木廠、木炭を利用して製鉄を行う鉄廠の様子が事細かに記される。しかし、残念ながらこの史料からも、これらがこの時代に初めて作られたという事実は感じ取れない。木廠や鉄廠、あるいはそれに類似した施設が存在し、伐採や製鉄を行っていたという状況は、それ以前から引き続き存在したのでは。因みに、宋代には、北宋の産鉄の祖額が多い順に
(1)河北西路 (2)河東路 (3)京西路 (4)永興軍路と、秦嶺山脈の大部分を含む永興軍路が鉄の一大供給地だったことが知られている(河上光一『宋代の経済生活』)。とすれば、「18世紀なかば、清代中期以降の森林伐採は、それまでとは比較にならないほど産地の深くに伐採の手がおよび、伐採された面積ははるかに広かったと推定される」根拠とは一体何であるか。史的システム論から逆に推論した結論に過ぎないのではないか。
しかしこれらのデメリットを差し引いても、森林伐採が進んだという氏の議論の大枠を支持する状況証拠は少なくない。陳宏謀による森林保護の主張、のちの森林資源枯渇による廠の閉鎖などは、仮に「激変」とまではゆかなくとも、この時期に非可逆的に生態系が変化したという見方を十分に支持する。さらに森林で働く労働者がトウモロコシを食料とし、伐採されたあとにそれが栽培されるという記述は、この変化が新大陸からの技術移転と無縁でなかったことを示してあまりある。これを示した点は本論文の極めて大きなメリットと言えよう。
さて、最大の問題は、構造的アプローチの「行着く先」として氏自身も強く意識している(上田1983)世界システム論との拘わりあいである。世界システム論は、この20年の間に歴史研究に確固たる地位を築いた。最近では、メソポタミアに始まる5000年の農耕社会の歴史を、中心を移動させる、ひとつの世界システムとし、近代世界システムをその最終段階の世界システムとして捉える研究も発表されている(Frank
& Gillis eds._The world system: five hundred years or five thousand?_1993)。また本講座で登場した多くの議論も、何らかの形でこの議論と拘わりあっているのである。すなわち、ウォーラーステインがただ一つのシステムとして世界システムを措定したとき、本家本元の南米に限らず、世界各地域の歴史研究者は、それを自己の領域に投げかけられた問として、積極的に受け止めた。その一つの具体例が、17世紀危機論争である。体制の危機、価格革命、人口減少といった事態が、東アジアを含め、幾つかの地域で同時に起こった。これがどのような仕組みで起こったのかについては、意見の相違が存在する。例えば、17世紀危機論をユーロセントリックなレベルから英スチュアート朝、土オスマン朝、中国明朝とユーラシアを跨ぐレベルに議論を引き上げたジャック・ゴールドストーンは、事はmulti-causalであるとしながら、大筋としては、気候変化及び16世紀を通じての土地生産性の上昇を上回る人口増加、そしてその結果としての諸資源への人口圧力と物価上昇、税収の相対的低下に起因する体制危機、といった筋道を想定した。「ecological
shift」が彼のキーワードである(Goldstone“East and west in the seventeenth century"_Comp
hist in soc & hist_30:1,1988)。しかし一方、アンソニー・リードは、東南アジアに議論を広げつつ、気候変化といった環境的要素を廃し、国際経済の停滞が人口減少を起因したと見る。大ざっぱには、気候変化を強く意識しつつ、人口(及び人口/土地比率)に一旦原因を還元する見方と、専ら世界市場の作用を重視する見方に別れると言える。ゴールドストーンの外にも、フェルナン・ブローデルやロイド・イーストマンは前者に属するであろうし、後者にはリード、アトウェル、岸本美緒氏らが含まれる。こうした、容易に決着がつきそうもない議論を見るとき、上田氏の“因果関係に囚われる可きではない、様々な要素が互いにフィードバックしつつ、渦のように変化の方向を形作る"、という議論は、確かに魅力的である。鶏が先か卵が先か、という型の論争に対して、上田氏のサイバネティクス的歴史観は、あたかも魔法の杖のようである。氏の議論に耳を傾けるとき、我々は、おそらく必要以上に、因果関係を追及しているのかも知れぬ、という不安に襲われる。
しかしながら、やはりこの問題の解決は容易ではない。氏は人口問題を「史的システム論の練習問題」と位置付け、人口自体の死亡率に対するフィードバックを強調するが、基調として人口は漸増しつづけた。マルクスは生産力を独立変数と考えたが、現実には資源の賦存状態に対応して、要素生産性を後退させることもある。例えば人口増加し、土地が希少化すれば、高い土地生産性を達成するため労働集約型の技術が採用され、一人当たり生産は後退することがある。反対に広大な可耕地が広がる新大陸に移民した社会は、却って以前の粗放型技術に逆戻りする(ボーズラップ)。技術は可逆的なのである。しかし人口の場合、調整機能が増加率を左右することはあっても、自在に総人口を増「減」させるということは、気候変動以外には、人口学的には比較的稀である。
中国の版図の総人口は、後漢から魏晋南北朝にかけて一旦減少したのち、特に唐宋以降漸増(宋代には年率0.3〜0.5%であったが、前近代としては大きい)傾向を示す。これに対して、土地は有限であった。宋代にもなおフロンティアの存在が人口圧力を相殺したとされるが、土地人口比率の悪化というマルサス的状況が徐々に進行していたことに疑いはない(Perkins,Elvin,K.Chao,Eastmann)。相対的に高い労働の限界生産を背景とした差役制度の後退、土地税への移行、あるいは宮嶋氏が指摘する小農化傾向も、これと表裏をなす。こうした趨勢はまぎれもなく存在したし、また気候変動といった完全な外生的要因が存在したことも、疑いない。問題は、それらをどの程度評価するか、という点なのである。つまり、人口成長・土地の希少化が長期的には傾向として認められても、全体の中から見れば貨幣供給、物価、財の市場的連環と比べて取るに足らないものなのか、あるいはそれが重要であったのか。史的システム論によって、死亡率が他の要因から容易にフィードバックを受けつけやすいと考える場合には、人口土地比率を従属性の高い変数と見る立場に通ずる。一般に制度・技術・市場論などを論ずる際には、ミクロ経済学的視点から生産要素の価格や行動モデルが重視され、地域間のつながりを論ずる際には、物価・通貨供給・市場規模など、マクロ的なトピックが重視される。評者の印象を述べさせてもらえば、こうした問題は、観念的議論からは決して解決し得ない。確立された方法論からの逸脱に注意しつつ、双方からの厳密な議論を推し進めたうえで統合をこころみるのが、新たな「中国史のストーリー」を構成する、意外な近道なのではなかろうか。
さて、最後に氏の方法論とポスト・モダニズムとのかかわりについて一言しておきたい。特に90年代に入ってから、アメリカの歴史学界に嵐のように吹き荒れるポスト・モダンの問題意識は、現実の世界が実態として存在しており、それを研究対象とする我々の実証主義や社会経済史家に、否応無く認識論上の問題点を突付ける。これに対して様々な反応が存在する。耳を固く塞ぎ無視を試みる立場、全面的に受け入れディスクール研究に向かう立場、テキストを分析するためには社会的コンテクストの分析が不可欠であるとして、歴史学の復権を叫ぶ新歴史主義、そして単に知らぬ者...。
氏の中国史研究は、多分にポスト・モダン的要素を含む。「国家」「階級」といった近代的概念の上に築かれた既存の中国史の脱構築を試みる。「ヨーロッパ」「アジア」といった、東洋史研究独自のディスクール自体を相対化する。こうした方向が、21世紀の東洋史研究(存在し続けたとして)の先駆をなしていることに、私は全く疑いを持っていないのである。しかし、上記の認識論的な面からすると、上田氏の分析対象は、特定のデキストのディスクール研究ではなく、やはりその向こうに存在が想定される“現実”なのではないか、と思われる。様々な隣接諸科学を用いて氏が創出した、分析に用いるメタ言語が「史的システム論」なのではないかと。そこには、“現実”の存在を信じることによって、見えないものを見てしまう「史的唯物論」と同種の危うさが潜んでいるように思われてならない。たとえば、氏の描く世界の中では、サクサンの飼育は、18世紀以前の定常的経済を代表する産業の地位に輝き、木廠、鉄廠は突如前面に躍り出た、18世紀の森林伐採の立役者である。しかし、「巡歴郷邨興除事宜檄」や『鎮安県志』のディスクール分析を行ったとき、その書き手の世界は上田氏の世界と同じだろうか。これと同じ誤謬を、多くの史的唯物論者が犯してきたのではなかったか。
あるいは、そもそも近代的な歴史家とは、“現実”という物語を創造する単なるstory-tellerだと割切ればよいのかも知れぬ。そのとき、最も良い物語を提供するのは、だれでろうか。経済学は、ひとつの強力な言語である。それは、これまで経済学者・経済史家という無数の語り手によって積み立てられ、多くの人によって共有されてきた。その中では対話が可能であり、説得が可能である。そこで極めて非ディスクール的なテーマである長期社会変動を分析するときには、この上なく強力な言語となる(『長期社会変動』鬼頭−宮嶋−柳澤/堀−川勝を見よ)。マルクスもウォーラースタインも、ほとんど既存の経済学の語彙を用い、それに新たな意味を付与したに過ぎない。それに比するとき、上田氏の言語には、あまりに新しい語彙が多すぎるのである。「村に作用する磁力について」にあってはなお、日常言語が使われており、まだ理解しやすかった。しかし史的システム論においては、毎回「〜システム」「〜流」「〜詞的社会関係」など新たな語彙が多出する。また、断定調の文、氏の価値観が表出された表現も少なくない。そうした一見些細なことが、我々他の分野で研究を続ける者に対する敷居を高くしているのである。もし“現実”が存在するなら、表現法など些細なことであろう。しかし、史的システム論が“現実”という物語を語るレトリックなら、対話と説得こそが重要になるのである。
「経済学は対話のためのレトリックである。...良い科学は良い対話である」(マクロスキー『レトリカル・エコノミクス』)